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「夢を育てよ」#8 貧しく厳寒の北海道の漁村から、札幌そして東京、スイスへ。フランス料理シェフ三國清三さんを導いた父の教えは「波が来たら、まっすぐに突っ込め」vol.1


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    バブル景気を迎える直前の1985年にオープンし、日本のフランス料理界に激震を与えた一流店『オテル・ドゥ・ミクニ』。オーナーシェフとして著名な三國清三さんは、15歳で料理人を志し、札幌グランドホテル、帝国ホテルで修業。弟子たちの間で互いに激しく競い合う厳しい環境の中、日本の料理界の神様と呼ばれた村上信夫シェフに見いだされ、駐スイス日本大使館の料理長に就任。言葉も分からなかったスイスで大絶賛を受けたのちに、数々の三つ星レストランを経て帰国。「お金がなくても学歴がなくても、志は平等だ」とのお母様の言葉に背中を押されて漁村を出た三國さんが、厳しい料理人の世界でステップアップするたびに実践していたのは、とてもシンプルな、けれど大変な勇気のいるルール。それは、かつて地元の海でお父さまの漁に同行した幼い頃、シケの波に小舟が翻弄される中で転覆せずに生き残る術として伝えられた、「波が来たら、まっすぐに突っ込め」との教えでした。

    貧しい漁村から世界へと運命を切り拓く 「おっかないものほど突っ込んでいくんです」

    「オテル・ドゥ・ミクニ」は、四ッ谷の緑豊かな住宅街の一角にそっと佇んでいました。東西の文化が交わって紡ぎ上げた歴史を感じさせ、まるでそこだけが何かの長い物語の中からじわりと出てきたよう。そこの「主」であるオーナーシェフ・三國清三さんもまた、内なる大きな物語を秘めた、エネルギッシュな方でした。

    「増毛町というところで生まれ育ったんです。『駅 STATION』という名作映画のロケ地にもなった、漁村です。今は廃駅になっちゃったけれど、JR留萌本線の終着駅でね。昔はニシンで栄えた漁村で、フルーツも栽培されていて、魚とフルーツの両方があるのは増毛くらい。半農半漁の町なんですよ」

    三國さんは懐かしそうに目を細めます。「僕の家も親父が漁師、お袋が農家をやっていて、子どもたちは小さい頃から漁や田植えを手伝ってましたね。男子5人女子2人の7人きょうだいは、あの時代では少ない方。お袋が名前を言うのが面倒で、男は生まれた順番に清一、清道、清三とつけていったから、三男の僕は清三なんです。でも中国では3はラッキーナンバーですからね、三國清三って、三と三に挟まれて、あっちでは『なんてめでたい名前なんだ、最高だ』って褒められるわけですよ」

    そんな幸運な名前を持つ三國さんは、小さな頃にお父さまと出かけた漁で、人生でとても大事なことを教わったのだとか。「増毛の海は日本海で、波が荒いんですよ。しけが1週間くらい続くから、少々の波なら漁に出る。手漕ぎの船で沖に出るんだけど、そりゃもう船は波のうねりでひっくり返りそうになるし、大きなおっかない波が何度もやってくる。でもそこで本能的に横に逃げると、波にのみ込まれて溺れる。そんなときに『まっすぐに突っ込むと沈没しないんだ』って、親父が教えてくれた」

    生き延びるためには、まっすぐに大波へ突っ込む。でもそれはとても勇気がいること。「そう、だけど僕の実体験で、確かにそうすれば生き残れたという経験があった。だから僕の人生、いまだにおっかないものほどまっすぐ突っ込んでいきますよ。85年に『オテル・ドゥ・ミクニ』をオープンして、86年に一億総グルメ時代が来て、お店は一気に有名店になった。現金100万円を持ったお客さんたちが毎晩来てくださったようなバブルが崩壊して、そのときもしんどかったけど、どうせつぶれるなら倍にしようと思って隣の建物を増やして乗り越えた。それを乗り越えたと思ったらリーマンショックや東日本大震災。でも、高級料理店に行く人なんてほとんどゼロのその大震災の直後に、うちは最高収益を出しているんです。今のコロナ禍でも、お客さんはほとんど来ないです。そういう時代の試練を、ずっと乗り越えてきているんですよ。親父にまっすぐに突っ込めと教わったからね(笑)」

    生まれて初めて食べたハンバーグに衝撃を受け、札幌グランドホテルへ

    きょうだいは全員、中学を卒業すると就職。「僕も米屋に丁稚奉公に出ました。住み込みで配達の仕事が終わると、夜間は調理師学校に通わせてもらえたんです。お米屋さんには3人姉妹がいて、その長女が栄養士さんだった。夜間学校に行く前に夕飯を食べさせてくれるんだけど、べちゃべちゃしたマカロニグラタンだとか固いポークソテーだとか、増毛で刺身や野菜を食べて育った自分には、珍しいけれど食べ慣れないから美味くない。あるとき、真っ黒な塊に黒いソースがかかったものが出て、15歳で初めて見るものに『あれ何だべ』とびっくりした」

    裏山のキノコや野菜など、食べられそうなものは何かと口に入れる子どもだった三國さんは、お母さまに「黒いものは毒だ」と教えられていたため、黒いソースを見て「あっ毒だ」と思ったそう。「何で毒食わすんだべ、不景気だって話も聞いていたから絶対に口減らしだと。腹壊して増毛に帰れって言われるんだと思って、手をつけられなかったんです。でもみんなぺろっと食べているから、恐る恐るソースを舐めたら甘酸っぱかった。増毛には食堂というものがなくてね。うちでは素材の味がメインの料理だったから、甘酸っぱいっていう味覚は初めてだったんですよ。みんなの真似して口に入れてみて、これは肉ですかと聞いたら肉だって。それまでは肉といえば、年に一度お正月に食べるラム肉のジンギスカンだけ。だからジンギスカンよりも柔らかい肉があるんだって驚いた、箸で切れるの。食べて感動したね、めちゃめちゃ美味かった」

    その料理がハンバーグというものだと知った三國さんは、栄養士のお姉さんを質問攻めにし、北の迎賓館と呼ばれる「札幌グランドホテル」のハンバーグはもっと美味しいとの知識を得たのです。中卒ではそのホテルには就職できないと言われても、もう三國さんには聞こえません。「丁稚奉公に旅立つ前の晩に、お袋が『とにかく手に職をつけて、料理人になれ』と言ったんです。学歴がなくても料理人なら必ず何か食える、学歴がなくても志ってのは平等なんだよ、と。それでハンバーグに出会ってこういう料理を作りてえな、そのためには、もうなんとしてでも札幌グランドホテルに行くしかないって」

    そこで三國少年は、一計を案じます。調理師学校の卒業記念行事には札幌グランドホテルでのテーブルマナー教室があり、三國さんは「これだ」とひらめきました。マナー教室でホテルに潜り込み、厨房見学に紛れて大胆にも物陰に隠れました。30分ほど隠れていたら青木さんという体の大きな男の人が目に入り、「波が来たら直進、ですよ。迷わず『中卒ですけれど、ここで使ってください。ドブ掃除でも何でもしますから』と直談判したら、増毛から来たって言ったこともあって、かわいそうに思った青木さんが『地下の従業員食堂のパートに欠員が出ているから、それなら』って」

    三國さんは次の日から毎晩、従業員食堂の「飯炊き」を夕方6時に終えると地下の洗い場に行って、宴会場から出る皿を夜までの数時間で1人で洗い上げました。「遊ぶお金があるわけじゃなし、うちに帰ってもしょうがないから、それなら仕事がしたかったんです。夜になって地下に下りてきた洗い場担当の厨房の先輩たちは、皿が全部きれいになっているのを見て大喜び。先輩たちにかわいがられて半年ほど経ったとき、人事部から総料理長が呼んでるって言われて行ったら、さっきの青木さんが出てきた。『明日からお前、正社員だ』って言われてね。青木さんって、青木総料理長の息子さんだったんですよ」

    特例中の特例で、16歳で正社員へ。何ともドラマティックな展開ですが、それはまさに「波が来たら直進」の教えの通りだったのでした。

    帝国ホテルで神様に会い、人生で初めての挫折を経験

    札幌グランドホテルで、念願の厨房へ入った三國さんは、「17、18の頃なんてもう、生意気盛りだった」と言います。「料理人同士の競争も激しいから、どうだ、とやってみせては先輩に生意気だってこらしめられてね。そうしたら、『札幌グランドホテルでちょっとできるからって威張ってみせたってだめだ、東京には日本一の帝国ホテルがあって、神様と呼ばれる村上シェフがいるんだぞ』って諭されたんですよ」

    帝国ホテルの総料理長として、あまりにも著名な村上信夫シェフ。三國さんは「神様」という言葉に反応しました。「当時はもう、100%高校に進学する時代になってたの。でもうちは親父もお袋も、朝3時や4時にご飯炊いて味噌汁作って働きに出て、日が暮れてから帰ってくる。食事ってのは子どもたちが自分で簡単に作って食べるもので、これだけお袋も親父も働いて、先に就職した姉たちから仕送りしてもらってもなお貧乏。高校にはきょうだいの誰も行けなかった。神様を恨むよね。なんでこんな貧乏なんだ、神様は不平等だ、って。そりゃ神様に会うしかないじゃない。生きてる神様がいるって聞いたんだから」

    「東京は怖いところだぞ」との周囲の反対を押しのけ、また青木さんに懇願して推薦状を書いてもらい、上京して会った「神様」はとても優しかったといいます。「あっ三國君ね、話は聞いてるよと。でもちょうどその頃はオイルショックで、帝国ホテルも正社員の希望退職者を募っているような状態だったんです。僕は洗い場にパートとして採用されて、上から28番目。順番に社員になっていくのを待つんですよ。せっかく札幌で正社員になったのに18でパートに戻って、20歳まではそれでも頑張ろうと思った。だけど2年経っても正社員の順番は回ってこない。ちょうど20になった8月の誕生日、もうダメだと人生で初めて挫折したんです」

    札幌を出るとき、先輩たちからは「増毛から出てきたお前がグランドホテルの料理人になれたのに、それ以上何を望むんだ。東京は鬼ばっかりだ、売られるぞ」とさんざん脅されたといいます。「帝国ホテルの料理人、650人ですよ。札幌の50人とは規模が違う。2年以上頑張ったけれどもうダメだ、先輩たちの言う通りだし、増毛に帰るしかないなと。それで洗い場の親方に『ホテル内18のレストラン、全部の洗い場やっていいですか』ってお願いしたんです。どうせなら帝国ホテル中の鍋をピカピカにしてから増毛に帰ろうって、はっちゃきになって洗った」

    すると、採用以来3年ぶりに村上総料理長に呼ばれた。「犬丸社長に、スイスの日本大使館から大使専属の料理人を派遣してもらえないかと打診があった。帝国ホテルで一番腕のいい料理人を選べと言われたから、三國君、行きなさいと」。諦めて北海道へ帰りなさいと言われるとばかり思っていた三國さんは、帝国ホテルの料理人650人の中から大抜擢を受けるという、まるで想定していなかった話に驚きました。「当時はパートで洗い場を担当していたから、実際に調理に携わってはいなかったけれど、勝手に手伝っていた時の『センスがいい』という理由で村上シェフは選んでくれて。村上シェフも『考えてみて』じゃなくて『行きなさい』っていうトーンだった。ジュネーブなんて、言葉もできない。でも断ったら増毛でしょ。その瞬間、増毛の寒くて侘しい風景がわっと思い出されたんです。で、僕は3秒で『行きます』って返事した。なんとかなるべ、って」

    東京から北海道に戻るつもりが、予想外のスイスに行くことになった三國さん。次回はヨーロッパで変わったお金に関する価値観や、ご自身の子育てのお話、食育についても伺います。

    ●三國清三さんプロフィール

    1954年北海道増毛町生まれ。15歳で料理人を志し、札幌グランドホテル、帝国ホテルにて修業後、1974年駐スイス日本大使館料理長に就任。ジラルデ、トロワグロ、アラン・シャペルなど三つ星レストランで修業を重ね、1982年帰国。1985年、東京・四ッ谷にオテル・ドゥ・ミクニ開店。2013年フランスの食文化への功績が認められフランソワ・ラブレー大学にて名誉博士号を授与される。2015年フランス共和国よりレジオン・ドヌール勲章シュバリエを受勲。食育活動やスローフード活動にも力を注ぐ。

    【次回はこちら】
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    取材・執筆/河崎環 写真/山田英博

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