キャリア

「夢を育てよ」#6 大久保嘉人さんが信じる「1%の可能性」 vol.1


    • Facebook
    • Twitter
    • Hatena
    • Line

    1993年の開幕以来、数々のゴールが生まれたJリーグ。そのおよそ30年の歴史の中で、誰よりも多くのシュートを放ち、誰よりも多くのゴールをあげている(2021年1月時点)選手が、大久保嘉人さんです。記録にも記憶にも残るゴールやプレーを生む高い技術と身体能力、そして代名詞でもあるゴールへの執念や闘志むき出しのスタイル。多くの人を魅了し続ける日本屈指のストライカーは、どのように夢を育ててきたのでしょうか。わずか12歳で親元を離れ、サッカーの名門・長崎県にある国見中学校に進学。「プロなんて無理」だと何度も思ったという時期を経て、今があるのは、ご両親のポジティブな言葉や経済的なサポートのおかげだといいます。幼年時代から熱きサッカー選手になるまでの道のりとご両親の関わり方、そしてご自身の子育てについてまで、大久保嘉人さんの夢の育て方を、たっぷり語っていただきました。

    いろいろ長続きしなかった少年時代

    姉一人、妹一人の3人きょうだいで、男一人。小さいときから運動神経抜群だった大久保さんは、サッカーを始める前に、ソフトボールや合気道などもしていたといいます。

    「でも、どれもすぐにやめてしまったんです。小1の頃には友だちがみんなサッカーをしていたので、『やってみたい』と父親に伝えると、『今度こそやめないなら』という約束で体験に連れて行ってもらったのですが、ボールが全然蹴れなくてまたやめてしまいました。その後、小3になってやっぱりやってみたいと頼み込んで行ってみたら、ようやくボールが蹴れるようになっていておもしろく感じたんです」

    小3から本格的に始まったサッカーの道。小5のときにはJリーグが開幕し、「自分も将来Jリーガーになりたい!」と強く思ったのだそう。とはいえ、「田舎に住んでいて、地元からサッカー選手になった人は誰もいない。なれるわけがないと思っていた」といいます。それでも、無我夢中で取り組むうちに頭角をめきめきと現し、同年代の知人いわく、「小学生当時から『大久保のプレーを見ろ』と人が集まるほど有名だった」そうです。そんな大久保さんに対してご両親は多大な期待をかけてくれました。

    「特に父親からは『プロになれ』『一番になれ』と言われ続けました。僕は口が悪くて『なれるわけねーだろ!』っていつも言っていたんですけどね」

    地域の選抜メンバーに選ばれ、プロという夢の階段をどんどん上がっていきます。ところが『やっぱり無理だ』と痛感したのも小5のとき。その年代の日本代表ともいえる精鋭メンバーが集まる「ナショナルトレセン」の合宿に参加したときでした。大久保さんは九州地区代表として参加しましたが、関東から参加した子どもたちのレベルの高さに息をのんだといいます。

    『お前はプロになれる。1%の可能性を信じろ』

    「僕は身長が一番低くて、小6になっても136センチくらい。Jリーグのユースチームの子など、技術的にも体格的にも素晴らしい選手ばかりで『こういう人たちがプロになるんだな……』と呆然としました。試合にも出られませんし、みんなが活躍するのを見ながら挫折感を覚えるばかり。親に『もう無理。試合にも出られんし』と伝えたのですが、それでも父親が『いや、お前はプロになれる』って。僕が何を言っても、父親はその姿勢を崩しませんでした」

    どんなときでも一番近くで見てくれていた父親から、「プロになれる」という前向きな言葉をかけ続けられたことは非常に大きかったそう。「そうやって言われ続けていると、『そうかな、プロになれるかな』という気持ちになって、またがんばれるんですよね」

    日本サッカー協会の方からの薦めもあって、中学進学時には、親元の福岡を離れて、サッカーの名門である長崎県の国見中学校に行くという案が出ました。

    「地元の友だちと離れるのが嫌で『行かない』と言っていたのですが、『1%でもプロになる可能性があるんだから行け』と、ここでも父親が言うんです。『いや、たった1%だなんて、なれるわけない』と最初は思っていたのですが、またそう言われ続けると『可能性がゼロではないなら、なれるかもしれない。それなら行ってみようかな』と、行くことに決めました。僕の性格では『お前はダメだ』と言われたら本当にダメになってしまうので、親は背中を押してくれたのかもしれません。1%の可能性を僕よりも信じながら」

    お金の苦労を見せなかった両親

    「可愛い子には旅をさせよ」とはいっても、サッカー選手になる可能性を信じ、12歳のわが子を遠く離れた場所に送り出すまでには、ご両親の葛藤もあったことでしょう。そしてさらに、お金の面でも血がにじむようなサポートがあったことを、大久保さんは大きくなるにつれ気づいたといいます。

    「小さいときは全くわからなかったのですが、今思えばうちはすごく貧乏でした。ボロい団地住まいで、収入に応じて決まる家賃は月数千円。ちょっと騒ぐと下の階からうるさいと怒られるような環境です。それでも、親は2万円くらいするいいスパイクを躊躇せず買ってくれました。練習ですぐにボロボロになるし、子どもの足はどんどん大きくなるので、買い換える頻度も高かったというのに」

    ご両親はサッカーに関してはお金を惜しまず応援してくれたため、小さい頃は家にお金がないことを少しも感じなかったといいます。小学校高学年の頃になると、ご両親ともに深夜も働きに出ることが増え、その間大久保さんはサッカー少年団の監督の家に泊めてもらうこともあったそう。

    国見中学校進学で寮生活となってからは、授業料と寮費、食費を含めて、かかる費用は毎月最低でも5万5000円ほど。遠征があるとさらに費用がかかります。

    それらを毎月払い続ける大変さは想像に難くありません。それでもご両親はそんなそぶりを一切見せず、大久保さんの夢を全力で応援してくれました。

    ダンベルで自分の親指を叩いた

    全国からトップレベルの選手が集まる国見中学校は、練習が桁違いにハードなことで有名な学校。遠く離れた実家に戻りたいという気持ちはなかったのでしょうか。

    「いや、ありましたよ(笑)。親元を離れ中1で初めての寮生活。最初の3カ月くらいはもう本当に心細くて。母が10円玉のたくさん入った袋を持たせてくれたので、朝起きたら、公衆電話から実家に電話する日々でした。母親に『おはよう。行ってくるわ』くらいしか言わなかったですけど。

    あと、なかなか試合にも出られなくて。でも、練習ばかりで休みもなく、実家に帰るタイミングすら見つからなかったんです。それでも中2のときに、一度だけどうしても実家に帰りたくなって、『ケガをすれば帰れる』ということを子ども心に思いついたんです。今思うと本当にバカですけど、筋トレ用のダンベルで、手の親指を思いっきり叩いて骨折させました。

    さすがに一時的に実家に帰れることになったのですが、『骨折なんかして帰ってきてお前は一体何をやっているんだ』と、親からは喝を入れられました。とても自分でやったとは白状できませんでしたが、両親や周りの期待をまたひしひしと感じて『もう一回がんばろう』と思いましたね」

    当時のチームの朝錬は6時10分から。加えて選手たちはみんな朝5時に起きて学校で自主練、そして授業を受けてまた夕方の全体練習をこなしていたそうです。

    「自分は朝が弱くて最初は全然起きられませんでした。そんな中、みんな足音を立てずにそーっと出ていくんです。起きたら誰もいなくて『このままだと差を付けられる』と焦りましたね。そういった意識の高い環境にいたことが本当に良かったと思います。僕は自主練では学校に行かず、近所の公民館みたいなところでゴミ箱から空き缶をひろってそのあたりに並べて、一人でドリブル練習をして、通常の朝練に参加するということをやっていました」

    「将来プロになる」という意気込みで集まったメンバーは友人でもありライバル。空き缶を使った一人だけのドリブル練習が、あとあと自分の持ち味になったといいます。

    長所を磨き続ける

    「あの自主練の日々がなければ、今の自分はないと思います。ドリブルが好きだったのですが、みんなはもっと上手で、自分もうまくなりたいという思いで必死でした。監督から『長所をのばせ』と言われてきたので、高校を卒業するまでドリブル練習は毎日続けていましたね」

    ひたむきな練習の成果が実を結んでいき、長崎県立国見高等学校に進学した3年時には、不動のエースとして、インターハイ、国民体育大会、全国高校サッカー選手権大会の高校3冠という快挙を成し遂げ、全国にその名を轟かせます。

    「運がよかったと思います。ただ、家にお金がないことがわかってきて、『プロになりたい』という思いに加えて、『せっかく応援してもらっているんだから絶対に結果を出したい』という気持ちも大きくなっていましたね。小学校時代の友だちも、プロになるために長崎まで行っていることを知っているので、何も達成せずに地元に帰るのも恥ずかしくて。厳しい練習でもなんとかついていけたのは、そういった想いや小さいときから父親に『絶対に人に負けるな。お前が一番になれ』と言われ続けていたことも大きいです。親からかけられる言葉というのは本当に支えになって、財産だと感じます」

    高校卒業後は、数多くのオファーがあったなか、セレッソ大阪に加入。その後の活躍は周知のとおりで枚挙にいとまがありません。中高時代の早朝の自主練などによって、ドリブルが大きな武器になった大久保さんですが、プロになってからも、「長所をのばす」ための自主練は続けているそう。

    「プロはそれぞれの考えがあって、自主練はやる人とやらない人がいますね。監督によっては、自主練を禁止するケースもあります。休むことも大切なのでそれも理解しているのですが、自分はチーム練習の後のシュート練習が欠かせません。いくら監督に『帰れ』と言われても、『ちょっとでいいのでやらせてください』と頼んでやらせてもらっています。試合でいい形にもっていくために自分にとっては必要なこと。特に試合前の数日間は、シュート練習は絶対にやるようにしています」

    なるべくしてプロになった印象の大久保さん。次回は、プロとして挑戦し続ける理由や、子どもの可能性を信じる大切さ、そしてお金についての考え方などを伺います。

    【次回はこちら】
    「夢を育てよ」#6 大久保嘉人さんが信じる「1%の可能性」 vol.2

    ●大久保嘉人さんプロフィール

    1982年6月9日生まれ。福岡県出身。小3から本格的にサッカーを始め、中学校は長崎県の国見中学校へ越境入学。国見高等学校の3年時には、インターハイ、国民体育大会、全国高校サッカー選手権大会の高校3冠を達成。2001年にセレッソ大阪でプロデビュー。その後、スペインのマジョルカ、ヴィッセル神戸、ドイツのヴォルフスブルク、川崎フロンターレ、FC東京、ジュビロ磐田、東京ヴェルディなどを経て、2021年に15年ぶりとなるセレッソ大阪への移籍が発表されて話題に。2013年~2015年にJリーグ史上初となる3年連続得点王に輝く。日本代表としても2度のワールドカップ出場経験がある。

    取材・執筆/西山美紀 写真/山田英博

    このページの情報は役に立ちましたか?

    <関連記事>

    「夢を育てよ」#6 大久保嘉人さんが信じる「1%の可能性」 vol.2

    「夢を育てよ」#5 元プロ野球選手でYouTuber、そしてJリーガー3人を子に持つ父。高木豊さんに学ぶ、自由な環境が育むもの

    ママのスタイルは十人十色#4「働きながら自分のスキルを試す!転職とも副業とも違う選択肢」

    <関連キーワード>


      RECOMMENDED この記事を読んでいる方へのオススメ

      カテゴリーごとの記事をみる


      TOP